2022年度8月仏教保育カリキュラム巻頭言より
ありがとう
♪♬ 来ました来ました 楽しいお盆 迎え火焚いて ののさまを みんなでお迎えいたしましょ 年に一度の 魂祭り♪♩
仏教保育園ならではのお盆の歌。今年もかわいい声が響いている。
幼い頃、お盆は楽しいものだった。親戚がたくさん集まってきて、久しぶりの従妹たちと遊んだり、大人に混ざってちょっぴり夜更かししたり。何より嬉しかったのは、お盆はいつもより、おしゃれな服を着て、髪もきれいにセットしてもらえたこと。きっとお母さんが親戚のみんなに会うからと気を使って、精一杯かわいくしてくれたのだろうと、今になってみると想像がつく。お盆の前になると、車で一時間半ほどかかる街に行き、服や靴を買ってもらうのが楽しみで楽しみで、山のくねくね峠道を45分ほど走ってから、うあーっと広がる妙に明るい風景を思い出すと、今でも胸がきゅんとする。
そんな、楽しくて待ち遠しかったお盆が、ご先祖様をお迎えして、感謝の思いを集わせる大切な魂祭りであることを知ったのは、しばらく経ってからだった。
在家でありながら得度を受け、導かれるままに僧侶の入り口に立っている私は、何を隠そう仏の道はまだまだ何もわからない。そんなことを言ったらお叱りを受けるかもしれないが、事実そうなのであり、仏教行事では、布袍に折袈裟をつけ、わかったような顔をして南無阿弥陀仏と手を合わせている。本当はとてもおこがましい気持ちで、背伸びをしようにも足首も伸ばせないほど、未熟極まりないのである。
ただ、お盆が楽しくてたまらなかったあの頃から、手を合わせるときの温もりと静けさが、心の芯を掌っているように感じていた。その純粋な感覚を今でも信じることができたからこそ、得度を受けて僧籍を取ること、歴史ある仏教園の園長を継承することを「お導き」として自分の躰に落とすことができたのかもしれない。そしてそれは、「ののさま」のお側で30年近く保育に携わる中で自然に流れるようになっていた、さらさらした柔らかい血のお陰のような気がする。
今年のお盆は、お母さんが帰ってくる初めての魂祭り。
重度の障害を持った姉に全てを捧げ寄り添った母。優しさも厳しさも含んだ母の頑張っている姿を見ながら育った私は、なんでも自分でやってのける世話のかからない子だったという。 寂しいと感じないように、自分のことに気を向けてくれる瞬間瞬間を敏感にキャッチして、勝手にポジティブに捉えていた幼少期だったのかもしれない。
だから、最後にその母を介護することができたのは、私へのプレゼントだったに違いない。幼い頃の触れ合いを優に超える二人の濃密な時間であった。
食べられなくなり、飲めなくなり、尿も、便も出なくなり、枯れていくように逝く準備をする母から聞こえた微かな声はいつも「あ・り・が・と・う」。
本気で別れを覚悟した2週間。そして、最期の呼吸を営む母を腕に抱かえ、その時が来てしまった。
私もやっぱり「ありがとう」しか声にできなかった。何回も何回も繰り返し伝えた。
ありがとう ありがとう 大丈夫、私は寂しくなかったよ。
待ち遠しいお盆。話したいことがたくさんある。
お父さんとは仲良くやってますか? 取りたかった車の免許は取りましたか?
たくさん遊んでますか? ぐっすり眠ってますか?
こちらはみんな元気です。あなたの愛した孫たちも曾孫もみんな元気です。
お姉ちゃんも、透析に助けてもらい頑張ってます。でも、長い入院生活で面会もまだ許されていません。できたら毎日代わりに会いに行ってやってください。
それから、いつかそっちにお姉ちゃんも召されていったなら、そのときは、自分の足で走って、自分の手でご飯が食べられる、ごく普通の生活が送れるようにしてあげてほしい。ずっとずっと夢見ていた親孝行をいっぱいさせてやってください。
自分の力ではどうすることもできないこと、誰の力を借りてもどうにもならないこと、人生には仕方のないことがたくさんある。どんなに願っても頑張っても、変えることができない事実は存在するのかもしれない。
今、私たちが命をお預かりしている子どもたちも例外ではなく、それぞれがそれぞれの「仕方のないこと」に出合うのであろう。
10年後20年後30年後、何歳になっても、ありがとうと思える心が消えてしまわないように、今の育みがあるのだと、お盆の歌を唄う幼い手を包むように両手を合わせ伝えていきたい。
かわいい みんな
ここに居てくれて ありがとう
南無阿弥陀仏 ありがとう
年に一度の魂祭り。